「最近、坐禅で整う」「お茶で心を整える」──そんな言葉をよく耳にします。
確かに、静かな時間や所作の中で心が落ち着くのは素晴らしいこと。
でも、私はときどき思うのです。
そもそも“自分の中で何が乱れているのか”がわかっていないまま、整えようとしても意味がないのではないかと。
「整える」は手段であって、目的ではない
坐禅やお茶といった「整える時間」は、確かに効果的です。
しかし、それは自分の心の状態を理解していることが前提。
自分が「何に反応し、何を怖れているのか」を知らないまま静けさに身を置いても、
表面は穏やかでも、内側では何も変わっていないことがあります。
人は、自分の心を“わかったつもり”でいることが多いものです。
でも、実際には他人の目や期待、過去の経験にとらわれた「仮の自分」で動いている。
その状態で坐っても、お茶を点てても、「整った気がする」だけになりがちです。
自分を知るために必要なのは、「静けさ」よりも「正直さ」
本当の意味で整うためには、まず自分の本音に正直であることが欠かせません。
- 本当は何が嫌なのか
- 何を我慢しているのか
- どんなときに心がざわつくのか
これらを見つめるのは、坐禅よりもずっと難しい作業です。
なぜなら、私たちは「いい人でいたい」「認められたい」という思いを手放せないから。
でも、その自分を直視しない限り、整えるどころか“ごまかし続ける自分”から抜け出せません。
経営者や講師にこそ問いたい──「整う」より「気づく」時間を持てていますか
組織を導く立場の人ほど、「整うこと」に惹かれやすい傾向があります。
忙しさや責任の重さから、静けさを求めるのは当然です。
ですが、整うことそのものが目的化してしまうと、本質的な変化は生まれません。
本当に必要なのは、
- 自分の内側にある「反応のパターン」に気づくこと
- そのパターンを認め、選び直すこと
です。
整うことは、気づいた自分をもう一度整え直す“メンテナンス”にすぎません。
まとめ
- 坐禅やお茶で整うことは大切だが、それは「自分を知っている」ことが前提
- 自分を知らないまま整えようとすると、表面的な安らぎで終わってしまう
- 整う前に、「なぜ乱れるのか」を見つめることが本当の始まり
✨「整う」ことより、「自分をわかる」ことから始めてみませんか。